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zoom RSS 舟ヶ谷城(新野新城)

<<   作成日時 : 2017/10/11 11:20   >>

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舟ヶ谷城(新野新城・城山) 築城年室町時代中期 築城者新野氏 種別 丘山城
                 御前崎市新野
今川系新野氏の出自、及び、いつ誰がこの新城に拠ったか明らかではない。或いは新野左馬助義時かとも思われるが、それを証明する資料はない。資料的には永享五年(1433年)今川系の新野氏として、「満済准后日記」に登場し、嘉吉の乱に新野左馬助(義親か)の名前がみえる。
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この画像は新野左馬助公展示館に展示してあったものです。展示館は静岡古城研究会の鈴木東洋氏の自宅及び医院であった所を公開しています。
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その中で舟ヶ谷の城山という資料が展示してありました。それには、舟ヶ谷の城山は、新野の篠ヶ谷・有ヶ谷・平田ヶ谷にまたがる山に占地し、牧ノ原台地が新野の中心平野部に張り出した先端部にあたり、この地を治める今川系新野氏の居城と伝承されている。
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かっては、八幡平の城と尾根で蓮なっており、主郭は土塁を周辺に構え、腰曲輪・出曲輪・横堀等で防備し、見事な山城の遺構があった。この横堀や多くの堀の造り方は従来の今川系の築城法には見られないもので、武田系の手法と考えられる。
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現在の遺構は、天正の初期、高天神城を中心とした武田・徳川両軍の攻防の頃、武田軍により以前からの城を改修されたものと思われる。
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のちに新野左馬助親矩は飯尾氏を曳馬城に攻めたが、戦いは利なく天間橋に於いて討ち死した。
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この正面の山が舟ケ谷城跡です。
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新野左馬助の墓と伝えられる五輪塔が、新野上組の佐馬武神社にある。
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なお、親矩と妻は徳川四天王の一人、井伊直政を幼少期に父直親が氏真に誅死された後、身をもってかくまい守り通したことで知られる。新野新城はこの今川系新野氏にかかわる城であることはほぼ間違いない。
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城址は牧之原台地の枝状丘陵が新野の中心部に張り出した先端に位置し、舟ケ谷の城山と通称されており、その北方は八幡平の新野古城に接続する。
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篠ケ谷地区舟ケ谷の大規模農道を有ケ谷に向かって進むと、左側にサイマツ(細松、糧抹、割松)ケ谷あり。
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切通しの直前、溜池の畔から急な坂を登ると、二の曲輪北西端の虎口に出る。
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現状はともに破壊、消滅しているが、前方の物見台と思われる曲輪と左側面の曲輪から横矢を虎口に向けて射るように縄張りされていた。
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一・二の曲輪とも現状は茶園。各20uの方形、ほぼ同面積である。ニの曲輪及び上段の一の曲輪の土塁は地滑りによってか、長年月の間に谷川が広汎に崩れ、現在北方に向かって斜面となっている。
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ニの曲輪の東及び西側の土塁に続いた北側の約35uの小郭(半島状に突出)や、一の曲輪を取り巻く帯曲輪、幅2m〜3mの腰曲輪等、舟ケ谷に面した遺構の大半は採土のため消滅してしまった。 (参考資料として静岡県中世城館跡 日本城郭大系・9 案内板 その他)

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