静岡県の古城・下田城

下田城(鵜島城) 築城年天正十七年(1589年) 築城者清水康英 種別 海賊城
          静岡県下田市三丁目
   
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伊豆半島の東南端、下田港の湾口を扼する西側の半島を現在城山公園と呼んでいるが、その全域が下田城跡です。
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直径800mの円周の中にいくつもの入江を持っており、高さは最高所で約60m、あまり高低はない。
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全山に巨松が群生し、ウバメガシや椿が自生して、うっそうたる森林をなしている。
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開港記念碑のある広場も曲輪跡で、そこから「鵜島城址」の碑のたつ本丸迄十分とはかからない。
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本丸は東西12m、南北30mの平場で、入口両側の土塁の残欠は木戸跡と思われる。
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突き当りの、10mほど高い石段の上に東西6m、南北30mの細い曲輪があり、
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更にその北側にやや高く東西4m、南北13mの曲輪がある。
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地元では天守台と呼んでいる。
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その先はだいぶ低くなり、二つの尾根に分かれ、それぞれ民家の近くまで下がっている。
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天守台の東側は本丸下へかけて腰曲輪が巡っている。
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「鵜島城址」の碑から左へ、天守台の土塁となって北側に幅6m、深さ5mの大きな空堀を抱いたまま西へ向かって50m余も続き、
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さらに空堀は30mも延びて山神社の近くに達している。
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これは南方和歌の裏方面からの敵に備えたもので、城内遺構の圧巻です。このほか、天守台西側下にも大きな空堀と土塁の残欠がある。
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また最高端のお茶ヶ崎は物見曲輪跡と思われ、直下の和歌の浦の現在海中水族館がある場所は、その向うの赤根島の蔭に隠れて、絶好の舟止まりだったと思われる。
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下田城は他の伊豆の諸城同様、天正十八年(1590年)四月、豊臣水軍の猛攻の前に屈したが、城将清水上野助康英は僅か六百余の手兵をもって、一万余の敵を向うに回し勇戦奮闘した。
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北条早雲が韮山に進出してからのことと思われるが、朝比奈六郎知明という人が八丈島を発見した功により下田郷を領地として貰った。
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その後知明に後継者がいなかったため、北条二代の小田原城主氏康は、自分の乳母の子、清水小太郎を鵜島(下田)城主とした。小太郎の没した後を嫡子の上野康英があとを継いで城主となった。
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天正十六年のことで、小田原攻め二年前である。その頃の情勢は北条氏にとっては次第に不利となっていった。街道筋から遠く離れた僻地とはいいながら、時代の流れは次第に風雲急をつげ、この鵜島城も穏やかではなくなってきた。
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天正十八年三月、豊臣の総攻撃がいよいよ始まった。鵜島城の攻撃にあたったのは長宗我部元親の長州軍で清水の水軍基地から水軍で海路松崎を経て下田の白浜に上陸した。一隊を柿崎から別の一隊を大安寺山から攻撃をしかけた。これに対し城の守備は六百の兵力であった。さすが天険の城で寄せ手も苦戦が続き、五十日間全く手を焼き攻撃も活発に出来なかった。
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そこで一計を考えた元親は、「小田原はすでに落城した。この上の戦いは無益である。太閤の御前には必ず良いように取り計らうから、ひとまず城を明け渡したらどうか」という文面を矢文にして城に射こんだ。こちらは城主康英、主家が滅びたうえは、部下をこれ以上苦しますことは出来ないと思い、開城を同意し、下田湾の対岸寝姿山の東側の山上で和議を結んだ。
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ところが城を受けとった元親は、たちまち豹変して攻撃をしかけ一挙に攻略してしまった。武士の誓いを破られた康英の無念さは想像にあまりあろう康英が騙されて和議を結んだ場所を今でも「和談ケ原」と呼んでいる。
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(参考資料として静岡県の中世城館跡 日本城郭大系・9 案内板 その他雑誌)




この記事へのコメント

yono
2019年01月14日 07:54
昨日(13日)に麻機遊水地でお会いした犬連れ夫婦です。
(野鳥とお城)で検索掛けましたらトップページにあり驚きました。内容も充実していますし解説も読みやすく、お人柄通り虚飾のないとても読みやすいブログで感心致しました。

下田にはかなり以前にまだ母が元気な頃、句題探しに1泊旅行に行きました。見どころがなく手ぶらで帰って来ましたが、そのときにこの下田城落城のお話を調べてあれば母を楽しませてあげられたのにと思いながら落城の歴史を読ませて頂きました。

このブログが多くの方に支持されるのは史実、事実による知見の深さ、写真と文章の絶妙な連なりよる現場感、無駄がなく抑制された文章ですね。1枚の野鳥の写真とコメントをみるだけで不思議に気持ちが落ちついてくるのがわかります。

素晴らしいブログをありがとうございました。
城きち
2019年01月14日 19:05
ブログを見ていただきありがとうございます。
不慣れのため行き届かない所が沢山あります。
これからもよろしくお願いします。

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