延岡城(別名 亀井城・県城)

延岡城(別名 亀井城・県城) 築城年慶長六年(1601年) 築城者高橋元種 種別 平山城
     宮崎県延岡市本小路
   
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日向灘の臨む延岡の中央に、こんもりと緑の茂みに覆われた小山がみえます。標高は53mで地元では城山と言われています。延岡城は、この城山の山頂にあります。
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豊臣秀吉の九州統一の後、日向県(ひゅうがあがた)五万石の領主として入った高橋元種が築城しました。
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慶長八年(1603年)のことです。当時は県城(あがたじょう)と呼ばれていました。
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堅固な要害で、最高所に本丸を構え、西側に二階櫓があり、東下に隅櫓、他は一ノ丸・二ノ丸・三の丸、そして少し離れた城地の西側に西の丸などを配した。(天守は無かったという説もある)。
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今は跡ばかりで、石垣が往時を偲ばさてくれますが、三の丸から二ノ丸に登る所にある、二ノ丸北面の高さ20mの高石垣は”千人殺し”と呼ばれた独特な仕掛けで名が伝わっています。
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延岡城一番の見せ場になっています。これは敵に攻められた時は、一番下の黒色の積み石を一つ外すと、石垣が総崩れになり、敵を千人以上も一瞬にして殺せる威力を持つと言われています。
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特異な曲線で積み重ねられた石垣の最低部にある黒ずんだ石は、果たして今でもそうした機能を持っているのかどうかは分かりません。
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よく見ると慶長年間の刻印もある。
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三百八十年余の不動の歳月の重みをズシリと感じます。
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延岡城は五箇瀬川と大瀬川が合流する地点の小山にあります。
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山頂を本丸として、三層の天守があった。大手口は北にあり、これから石段を登って三の丸に至り、その東南より二ノ丸、さらに本丸に登る。
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二ノ丸の西側の高い石垣は、敵が三の丸に攻め入った時に、この石垣の基部の一部を外すと、石垣はたちまちに崩れ落ち、一時に千人を殺すことができる仕掛けとなっていると伝え、千人殺しの名がついた。
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元種は領内の発展に力を尽くしていたが、慶長八年(1603年)、罪人を領内に隠したとの理由で改易となり、常陸に流された。
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慶長十九年(1614年)、有馬直純が五万三千石で入城、直純も城下町経営に力を注いだ。
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子の康純の明暦元年(1655年)三層の天守をはじめ、本丸の修築をなして面目を一新したが、天和三年(1683年)の火災は本丸に延焼、天守は焼失し、以後は、再建されることはありませんでした。
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有馬氏は直純・康純・永純の三代で転封になり、その後は、三浦氏・牧野氏と変わった。
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延享(えんきょう)四年(1747年)に七万石の内藤政樹が磐城国(福島県)から来て、明治二年(1869年)の版籍奉還まで八代がつづいた。
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延岡は明治時代から、時刻を知らせるのに鐘を撞く習俗があって、これは現在までも続いています。
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朝から夜の九時頃まで、何回か、この城山の梵鐘が鳴らされています。(参考資料として日本城郭大系 探訪日本の城 現地案内板 その他雑誌より)







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