高鍋城(別名 財部城・舞鶴城)

高鍋城(別名 財部城・舞鶴城) 築城年平安末期 財部土持氏 種別 平山城
     宮崎県児湯郡高鍋町新小路
   
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高鍋城は、かって財部城と呼ばれ、平安時代末期、豪族土持氏によって築かれたと言われる古城です。
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戦国時代は伊東氏の所領となったが、天正五年(1577年)島津氏に敗れ、
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島津領になり同十五年には豊臣秀吉九州平定に投降した筑前秋月城の秋月種実が三万石で転封。
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種実は初め櫛間(串間市)にあって、二代種実の時にこの地に移り、
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城は大修築し、以後、高鍋藩秋月氏三万石居城となりました。
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以後、明治維新まで続いています。
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この城は北に小丸川が西から東に流れ、東は日向灘を控え、
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西に丘地を負って、西から東に突き出した標高73.7mの丘陵地に城取りしたものです。
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古くから財部土持氏の居城であった。
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土持氏は田部氏の一族で、もと、豊前国宇佐神宮の神官であったが平安時代に宇佐神領たる荘園の管理や拡大に活躍し、
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平安時代以降、県庄(延岡市)を中心に土持七頭があって日向を治めたと伝えられ、財部土持も七頭の一つであったが、
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長禄元年(1457年)影綱の時に伊東祐堯(すけたか)と小浪川に戦って敗れ、滅亡したため、城は伊東氏の有となり、
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伊東氏の家臣落合民部少輔の子孫がこの城に住んで世襲し、伊東四十八城の一つとなった。
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この地方は財部といったから、財部城と呼ばれた。
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中世、長くこの地を支配した土持氏の一族が拠ったこともある。天正五年(1577年)島津氏は部下を地頭として置いた。
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天正十五年(1587年)豊臣秀吉による九州平定後、筑前秋月種実がこの地に移され、一時、櫛間城に入ったが、
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中世の城が近代の城として生まれ替わったのである。城の名も高鍋城と改められた。
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そして秋月氏は二万七千石をもって代々明治に至った。
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慶長九年(1604年)十一月、財部城を居城とした。種長の孫、種信の延宝元年(1673年)幕府の許可を得て大修築を行った。第七代種茂(たねしげ)の弟の松三郎は、九歳の時に米沢藩の上杉家の養子に入って治憲(はるのり)と名のった。後に白河藩の松平定信と並ぶ江戸時代きっての名君と言われた上杉鷹山(ようざん)です。











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