飫肥城(別名 亀井城)

飫肥城(別名 亀井城) 築城年長禄二年(1438年) 築城者新納忠続(にいろ) 種別 平山城
         宮崎県日南市飫肥
飫肥城は日本百名城の№96です。   
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飫肥城は、飫肥の町の北側、蛇行する酒谷川に抱きかかえられた丘の上に築かれた城です。
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創建年代は明らかでありません。長禄二年に薩摩・島津氏の一族、新納忠続が志布志城より入城した記録がある。
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この後島津忠朝・忠広と続き、忠朝の時、鎌倉時代からの勢力を広げていた都於郡城(とのこおり)を本拠とする伊東氏の大軍の攻撃によって城を明け渡した。
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以後、何度も島津氏と伊東氏の両氏の間で飫肥城の争奪戦が繰り広げられ。
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日本歴史上、最長の百年に及ぶ攻防戦が続いたことは有名な話です。
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伊東氏の先祖は静岡県の伊豆の工藤氏で、源頼朝から日向の地頭職に任じられた工藤祐経と言えば、あの曽我五郎・十朗兄弟から富士裾野の巻狩りで仇討ちされた人物です。
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長い攻防戦に終止符が打たれたのは、天正十六年(1588年)、豊臣秀吉の九州平定に戦功を立てた伊東祐丘(すけたか)が秀吉の命で封じられてからで、
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その後、十四代、二百八十余年伊東氏の居城として続いた。
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飫肥城城域は周囲2.5キロと広く、本丸・中ノ丸・今城・西の丸など十一区に分かれて、空堀を巡らしていた。
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廃藩置県の際、館・楼郭すべてが壊され、遺構としては、壮大な石垣、飫肥石で畳み上げた”切り込みハギ”の手法を用いた枡形石垣などがあげられる。
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昭和五十一年からの工事で復元された大手門や和風建築の松尾の丸などにも往時が偲ばれます。
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貞享元年(1684年)十一月、大地震のため、本丸は城主寝室の傍まで地割れして住めない状態になったため、大修築が行われた。
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土塁、石垣などは新規の構築であったから莫大な労力を費やした。
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元禄四年(1691年)ようやく普請は終わった。
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元禄四年十二月から作業に着手、同六年五月に城櫓・殿館が完成した。
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今に伝わる飫肥城はこの時代のものです。
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桝形石垣に沿って登って行くと、ほどなく書院造りの外観をした塗籠の白壁の建物があります。   
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昭和53年にオープンした歴史資料館です。館内には藩主伊東家の遺品が展示されていますが、大坂冬の陣の各藩武将の布陣図などや、その他興味ぶかい資料などが展示されています。   
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歴史資料館からさらに登った西奥の台地は、本丸跡と松尾丸跡です。松尾丸跡には、昭和54年に建設された、風格のある和風建築が広壮な姿を見せている。「松尾の丸」といい、江戸時代の居館を時代考証をかねて復元されたものです。   
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飫肥の城下町は「九州の小京都」といわれています。武家屋敷街や商人町も旧態が良く保たれています。   
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飫肥城大手門脇にある伊東家庭園と母屋などが見学できます。   
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飫肥城跡へのメーンストリートは大手門通りと呼ばれ、緩い傾斜をしていますが、その両側には古びた石垣が連なっています。城跡に向かって左側に、高い石垣に囲まれた一郭は伊東氏の支族の屋敷であり、左側に見える源氏塀を石垣の上に配した屋敷は明治維新後、藩主の居館とされた「予章館」です。 
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邸内に営まれた武学流の作庭と伝える庭園も、この地方きっての名園として閑雅な美観を構成している。
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(参考史料として城郭と城下町10 探訪日本の城10 日本城郭大系 現地案内板その他)








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