大村城
大村城(別名・玖島城) 築城年慶長四年(1599年) 築城者大村善前(よしあき) 種別 平山城
長崎県大村市玖島一丁目

初代藩主大村善前(よしあき)はキリシタンで、彼は父の純忠(すみただ)の遺志をついで、全国キリシタン十五万人中約七万を擁するという自領のキリシタンと、異国人の宣教師たちの保護政策をつづけた。

南蛮貿易を促進する一手段とした父の外交政策が理解できたからである。

玖島城は大村湾に面した大村扇状地南端の突出した半島の基部に構築された、平山城で、

近世大村氏の居城であった。

近世以前の室町・戦国期における大村氏は、郡川(上流は管瀬川)流域に沿って、
島兜城・中岳砦・管無田砦・今富城・好武城・尾崎城などを構えていたが、

永禄七年(1564年)には純忠(すみただ)が三城を築城してこれに移っていた。

しかし、純忠の子喜前は、関ケ原の戦をひかえた不穏な情勢に対処するには三城は海に遠く、
大敵を引き受けて戦うには不便であるとして、より堅固な城の構築の必要を痛感し、築城に踏み切った。

この際善前は、朝鮮出陣の時の体験から、海に近い要害こそもっとも防衛に適しているとの判断を固め、

家臣に適当な地を諮門した。その結果、杭出津の地こそ海に近く良好な地であろうということになり玖島に築城することに落ち着いたと言われる。

本丸を中心にニの郭・三の郭がこれに組み合わされるという基本構造であった。

本丸には重層の天守閣はなく、単なる館造りの建物がみられたにすぎなかった。

そのほかには、多聞櫓および裏櫓などがあった。本丸には虎口(出入り口)が三ケ所設けられていた。

最初、慶長三年に築城された時新たに角堀が造られた。搦め手からはいろは坂を下って城外に抜けるようになっている。。

玖島城の特色は、海に面した場所に立地していること、および石垣が複雑に巡らされていることで、

特に大手門から本丸に至る箇所はいわゆる桝形をなしていて見通しを妨げており、いっきに矢を射通すことが出来ないよう細かく配慮されている。

玖島城(大村城)は、慶長四年(1599年)第十九代当主大村善前(よしあき)が築いてから、第三十代純煕(すみひろ)に至るまで、約ニ百七十年の間大村藩主の居城でありました。

善前は、豊臣秀吉の死後、天下がふたたび乱れることを恐れて防備を固くするため、三方が海に囲まれた要害の地、玖島を選んで本城を築き、三城からここに移った。

慶長十九年(1614年)第二十代純頼によって大改修が行われたが、この時、北側にあった大手口を本小路側に移した。城の設計は善前公と親しかった築城の名手加藤清正と伝えられ築城奉行は長崎惣兵衛重方であった。(参考史料 日本城郭大系 探訪日本の城10 現地案内板その他雑誌)

この城は城郭研究家の評価も高く、特に扇勾配の曲線を描く石垣が美しい。本丸跡には、歴代藩主を祭る大村神社が、明治十七年に建てられた。その境内のオオムラザクラは、珍しい二段咲きで、国の天然記念物に指定されています。城跡一帯は大村公園となり桜・躑躅・花菖蒲の名所として広く知られています。
長崎県大村市玖島一丁目
初代藩主大村善前(よしあき)はキリシタンで、彼は父の純忠(すみただ)の遺志をついで、全国キリシタン十五万人中約七万を擁するという自領のキリシタンと、異国人の宣教師たちの保護政策をつづけた。

南蛮貿易を促進する一手段とした父の外交政策が理解できたからである。

玖島城は大村湾に面した大村扇状地南端の突出した半島の基部に構築された、平山城で、

近世大村氏の居城であった。

近世以前の室町・戦国期における大村氏は、郡川(上流は管瀬川)流域に沿って、


永禄七年(1564年)には純忠(すみただ)が三城を築城してこれに移っていた。

しかし、純忠の子喜前は、関ケ原の戦をひかえた不穏な情勢に対処するには三城は海に遠く、

大敵を引き受けて戦うには不便であるとして、より堅固な城の構築の必要を痛感し、築城に踏み切った。

この際善前は、朝鮮出陣の時の体験から、海に近い要害こそもっとも防衛に適しているとの判断を固め、

家臣に適当な地を諮門した。その結果、杭出津の地こそ海に近く良好な地であろうということになり玖島に築城することに落ち着いたと言われる。

本丸を中心にニの郭・三の郭がこれに組み合わされるという基本構造であった。

本丸には重層の天守閣はなく、単なる館造りの建物がみられたにすぎなかった。

そのほかには、多聞櫓および裏櫓などがあった。本丸には虎口(出入り口)が三ケ所設けられていた。

最初、慶長三年に築城された時新たに角堀が造られた。搦め手からはいろは坂を下って城外に抜けるようになっている。。

玖島城の特色は、海に面した場所に立地していること、および石垣が複雑に巡らされていることで、

特に大手門から本丸に至る箇所はいわゆる桝形をなしていて見通しを妨げており、いっきに矢を射通すことが出来ないよう細かく配慮されている。

玖島城(大村城)は、慶長四年(1599年)第十九代当主大村善前(よしあき)が築いてから、第三十代純煕(すみひろ)に至るまで、約ニ百七十年の間大村藩主の居城でありました。

善前は、豊臣秀吉の死後、天下がふたたび乱れることを恐れて防備を固くするため、三方が海に囲まれた要害の地、玖島を選んで本城を築き、三城からここに移った。

慶長十九年(1614年)第二十代純頼によって大改修が行われたが、この時、北側にあった大手口を本小路側に移した。城の設計は善前公と親しかった築城の名手加藤清正と伝えられ築城奉行は長崎惣兵衛重方であった。(参考史料 日本城郭大系 探訪日本の城10 現地案内板その他雑誌)

この城は城郭研究家の評価も高く、特に扇勾配の曲線を描く石垣が美しい。本丸跡には、歴代藩主を祭る大村神社が、明治十七年に建てられた。その境内のオオムラザクラは、珍しい二段咲きで、国の天然記念物に指定されています。城跡一帯は大村公園となり桜・躑躅・花菖蒲の名所として広く知られています。
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