前牟田城

前牟田城 築城年は不明 築城者越後孫四朗 種別 居館
     佐賀県三養基郡上峰町前牟田


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昭和50年代の圃場整備で姿を消した前牟田環濠集落の中央には越後孫四郎館跡として「城跡」と呼弥された浮島が残っていた。
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建武元年(1334年)十二月二十五日付の大友貞載施行状により「越後孫四郎跡」のうち「坊所保領家職拾分一」が後藤光明に宛行われており、
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実際に該地付近に越後孫四郎の知行地があったことがわかる。
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そして、康永二年(1343年)十一月二十六日に一色道猷(いっしきどうゆう)が「西坊所保」の中にある「越後孫四郎跡」として「田町百町」「屋敷、畑地」を松浦氏族の御厨並に与えていることから、西坊所に越後氏の所領と居館が実在したことが確認できます。
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越後氏は、鎌倉幕府の執権北条の一門(金沢流北条氏)で、IMG_0081.JPG永仁四年(1296年)から肥前守護職を鎮西探題北条実政(越後太郎)が兼任したのを契機に分族が土着したものかもしれない。
圃場整備時に濠割は埋め立てられて、現在は跡形もなく消えてしまったが、旧地籍図などから旧態を復元すると、環濠集落全体の規模は南北250m×東西130mほどで、濠幅は20m以上に及部位もあった。IMG_0080.JPG内部の島状地は16.7箇所を数えるが、その中央やや東寄りの平面長方形の「島」(南北45m×東西20m)を地元では「城跡」と称していた。その東隣にはほぼ同じ規模の島状地があり、西側には「ヤンボシ屋敷」とのしこ名を伴う三倍くらい大きな島があった。おそらくこれらと一体となり城館としての機能を果たしたものと思われる南西隣の比較的大きな島状地は文殊院跡の境内で、幕末頃に廃寺となったため城主との関係は不詳です。前牟田集落の西に小字屋敷といって複雑に堀を巡らした島々があり、山林また水田になっているところがあり。現在、前牟田集落のある道沿いには人家がない。
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すなわち近世末まで環濠集落であったのが、社会の安定から日常生活の便宜のため島の屋敷を捨てて道路沿いに移居したものであろう。島屋敷は大きなもので現在一辺30m~40m四角形であるが堀を巡らすために角が次第に浸蝕されて全体として内形または、楕円形を呈し最大1000平方メートル(300坪)ぐらいになっている。IMG_0075.JPGこの島屋敷は平和が恢復した近世にわざわざ掘る必要がないので、おそらく中世にできた平城です。




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