原城(別名・日暮城)

原城(別名・日暮城) 築城年明応五年(1496年) 築城者有馬貴純(たかずみ) 種別 平山城
        長崎県南島市南有馬町

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原城は、有明海に面して、もと「原の島」と呼ばれた南東に突出して横たわる周囲三キロに及ぶ岬を利用して築かれた平山城であった。
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それは本来、有馬氏の本城(日之江城)に対する支城として構築されたとみられるが、両城とも有馬氏の居城と見なされた時期もあった。
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領主有馬氏は、藤原純友(すみとも)六代の後裔と称する藤原経澄(つねずみ)をもって初代とする。島原市から有明海の海岸沿いに西へ二十キロ、島原鉄道の原城駅から一番近い。
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この南有馬町から東の方向に城址を望むと、海岸に沿っている。そして国道沿いの一帯は、城址まで水田を含む低地帯となっていることが分かる。
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この地域は原城の築城以来、近世に至る一面の湿地帯で、干満の激しい有明から潮が引いても腰までも没する泥沼と化し、そこに西から田町川が流れこんでいて、丈の高い芦の繁る大きな入江をなし、塩浜にも利用されていた。
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今も大江の地名が残っています。また、東側つまり有明海岸の方から見ると、原城は海からの標高は30mを越える断崖絶壁の上に位置し、
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その本丸にそびえ建つた天守閣は、朝な夕なに有明海にその影を映し、写真00813.JPGその美しさに沖合を通る舟も思わず漕ぐ手を休め、陽の沈むのも忘れてみとれていたと言われています。そこから別名の日暮城の名が生まれたと言われています。
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原城は、県下最大の平山城で、周囲三キロメートル、四十一万平方メートルの規模をもち、写真00815.JPG
有明海に面して南東に突出した岬を利用した要害です。城構えは、本丸・二ノ丸・三の丸・出丸などで構成されている。
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慶長十九年(1614年)島原藩主有馬直純(十四代目)は日向国県城(宮崎県)に転封され、
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元和二年(1616年)松倉重政が大和五条(奈良県)から入部した。
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松倉氏は、一国一城令により原城を廃止とし、元和四年(1618年)からの島原城(森岳城)の築城にあたり、写真00819.JPG
構築用の石材等を運んだものと見られている。
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松倉氏の藩政は、領民への苛酷な賊役と重税を課し、キリシタン弾圧など、厳しく行ったため、
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寛永十四年(1637年)十月二十五日に天草四郎時貞を盟主として、「島原の乱」が起こった。
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原城は、同年十二月三日から寛永十五年二月二十八日まで、領民(天草の領民を含む)約三万七千人(二万七千人ともいわれています)が八十八日間立て籠った「島原の乱」の終焉の地であります。
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島原の乱。寛永十四年の夏、天草、島原一帯は厳しいキリシタン摘発と、苛酷な年貢米取り立てに農民はあえいでいた。
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いつしか宗門の中から一人の天才が現れ、奇跡を行うといわれ出し、写真00828.JPG
その天才とは肥後天草郡大矢野村の益田甚平衛の子四朗時貞であるとの噂になった。写真00830.JPG
これが一揆の主人公天草四郎で、甚平衛は小西行長の遺臣である。写真00831.JPG
この秋、口之津の大百姓与三右衛門の妻女が年貢未納の人質として捕らえられた。女は臨月だったから六日間水牢に入れられ、水中で産をして死んだ。写真00847.JPG
これに憤怒した三右衛門は仲間と共に代官邸を襲い役人を殺した。写真00848.JPG
これを動機として領民は一斉に海上三里にある小島に会合、反乱の烽火をあげると同時に原城を修築して男女合わせて三万七千人が立て籠もった。それが島原の乱の始まりです。(参考史料 日本城郭大系・日本城郭事典・現地案内板 その他雑誌)






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