大分城(別名 府内城・荷揚城)

大分城(別名 府内城・荷揚城) 築城年慶長二年(1597年) 築城者福原直高 種別 平城
               大分県大分市荷揚町

大分城は日本百名城の94番目です。訪問日2006年3月
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大分城は豊後府内城、荷揚城とも言われます、豊後水道の良港を城郭に取り込んだ典型的な海城であります。
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大友氏時代には市内西山の丘上に居城が営まれていたというが、その跡は判然としない。
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現在残されている石垣や櫓が築かれるのは豊臣の大名福原直高が入城してからのことで、
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工事は竹中氏・日根野氏の時代にも及んだ。
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城は明治の破却以後も、二ノ丸の諸櫓、太鼓門などが残されていたが、昭和二十年の空襲で大半が失われてしまった。
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しかし、近年順次、復元建築がなされています。大分城址には空襲をまぬかれた人質西隅櫓と宗門櫓が塀と共に現存しています。
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いずれも戦国末期の矢倉建築の用途を示すことばがそのまま名称となった珍しい遺構であります。
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宗門櫓の外観は単層だが、内側は二重で、構造上貴重なものであります。
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また大分城下は大友氏時代には、西洋文化の窓口の一つとして、大友氏と共におおいに栄えたが、
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現在はそれを記念する多くの碑が建てられているほかには、何の面影も残っていません。
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大分は大友宗麟が永禄五年(1562年)に臼杵城へ移るまで、大友氏歴代の本拠として栄えた。
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その居城府内城は大分駅南方の台地の東端、上野ケ丘にあった。
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現在の大分城は慶長四年(1599年)から五年にかけて福原直高が築いたものである。
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福原直高は秀吉の寵臣石田三成の女婿で、大友氏が秀吉に平らげられた後、臼杵城にはいったが、永禄五年、十二万石に加封されて府内城に入った。
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しかし府内城は堅固さの点でもの足りなく、直高は領内に適当な城地を探した結果、荷落という所に新たに築城することを決めた。
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ここは大分川の河口にあたり、常に荷舟が出入りして荷の積み下ろししているところから荷落の地名があった。
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城が完成したとき、直高はこの地名を取って荷落城と名付けようとしたが、荷落ちでは縁起が悪いという声が出たので「荷揚城」としたという。
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福原直高は築城にあたり、まず石材を集めた。
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石材運搬には強制的に諸国の商船を利用したが、福原氏の背後に控える石田三成ひいては秀吉の威光を恐れて背く者はなかった。
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商船利用だけでなく、この時石の重量1匁につき料銀百匁を出すと布告したので、港には石を積んだ船が数百艘も集まってきた。
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おかげ石の相場は下落してしまい、また持ち帰るのは無駄だからと、港に捨てていく船が続出、その捨てられた石で十分間にあったというから皮肉であります。
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石集めについで苦心したのが、湧水の始末であったが、生石村(いくし)名主二宮某が献策して、おびただしい数の桶を持ってこさせこれに緒をつけて釣瓶を造り、二人が組みになって集中的に水汲み作業を行ったので、工事は、とど懲りなく進捗し、無事に石垣を築くことができたという。
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慶長四年(1599年)、徳川家康は福原直高を伏見城に呼び寄せ、大友館があるのに領民を虐使して新城を築くとは奇怪であると咎めて領地を没収、追放していまった。
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そして府内城には、ふたたび早川長敏を入れたが、慶長五年の関ケ原の合戦で早川氏が西軍に加わったため、在城は一年足らずで終わりました。
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翌六年、知将の名の高い竹中半兵衛重治の一族の竹中重利が高田城から府内に移封され、三万五千石を領した。重利は家康の許可を得て城の大修復を行い、同十年頃には水城としての府内城が完成した。四層の天守ができたのもこの時です。
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(参考史料は日本城郭大系 城郭と城下町10 現地案内板 その他雑誌)










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