佐伯城(別名 鶴屋城・鶴ヶ城・鶴谷城)

佐伯城(別名 鶴屋城・鶴ヶ城・鶴谷城) 築城年慶長七年(1602年) 築城者毛利高政 種別 平山城
           大分県佐伯市西谷町

訪問日は2006年三月です。三の丸の櫓門が工事中でした。
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佐伯城は、慶長六年(1602年)に入部した毛利高政によって、翌七年から十一年にかけて番匠川の河口に近い標高140mの塩屋八幡山に築城された近世の山城でありましたが、
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寛永十四年(1637年)三代高尚の時、山麓の三の丸に居所を移し、以降、平山城となって、毛利氏十二代の居城として明治維新を迎えている。
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高政は尾張に生まれた豊臣秀吉子飼いの武将で、森を氏としていたが、中国役で織田信長急死によって秀吉が毛利氏と和議を結ぶ際、毛利方へ人質となったのが縁で毛利と改めた。
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大坂城築城に従事、文禄・慶長役では対馬に駅城を築き軍監を務め、慶長元年(1596年)には豊後日田二万石の大名となり、
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公田八万石の代官を兼ね、隅部城に五層の天守を築くなど出世したが、関ヶ原で西軍に属し、佐伯二万石への転封となったものだ。
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城の縄張りは織田信長の遺臣で安土城を経験した市田佑定が担当する。
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城の完成後近江へ帰ったが、一子二郎兵衛は商人「安土屋」となって、佐伯に居住した。
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石垣師は播州から羽山勘右衛門を召し抱えたが、工事中高政から鉄砲で殺害され、築城に参加した宝寿院という山伏は、城の秘密を知る者として佐伯に留められ、遺言で故郷伊予の見える地に埋葬されたという。
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完成した城は、山上に塁々と野面積の石垣を巡らし、三層天守のある本丸を中心に、本丸外曲輪・二の丸・西出丸・捨曲輪・山麓に三の丸、
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遠浅の海岸を埋め立てた城下町は番匠川を外堀とした総構えを形成していた。
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現在、山城部の石垣はほぼ完全に残り、三の丸には櫓門が城下山際の上級武家屋敷群と一体となって、「歴史と文学の道」として整備されています。
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佐伯城址は佐伯市の一角、海抜百四十メートルの城山の山頂にあります。
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山頂までは曲がりくねった険しい山道で、道の両側には昼なお暗い杉林が続く。
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ここは古くから豪族佐伯氏の館があった場所と言われています、この佐伯地方に早くから勢力を張ったのが、豊後(大分県)の旧名族緒方三郎惟栄(これよし)で、平安末期の源平合戦では、後白河法皇の院宣(いんぜん)をうけた惟栄は、兵三万騎余を率いて大宰府を攻めて平家を追い出し、おおいに勇名をはせた。この惟栄が住んだのが佐伯荘であった。中世に入ると、惟栄の子惟康が緒方を改めて佐伯姓を名乗り、惟宗の代に至って、北九州に勢威を振るうようになったのです。
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慶長六年(1602年)に日田の隅部城から移封された毛利高政が同九年にこの地を選んで築城の工事を起こした。
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三年かかつて完成しました。三層の天守閣を中心に二重櫓・5、平櫓・1、桜門・1、冠門・8という堂々たる山城が出現しました。
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尾根に沿って二の丸や出丸を配して、全体が舞鶴に似ていたので「鶴ケ城」とも呼ばれた。
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やがて天下泰平の世となり、三代の毛利長川は寛永十四年(1637年)に山城には番兵を置く程度にして、
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居館を山麓の三の丸に移した。
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この城は創築者の毛利氏(長州毛利氏とは血縁関係はありません)が十二代、相伝えて維新に至ったが、
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明治維新と共に城の構築物はほとんど壊され、僅かに天守閣、櫓、門などの一部を残すのみとなってしまいました。本丸跡には若き日にこの地で教鞭をとった国木田独歩の文学碑があります。
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(参考史料 日本城郭大系 城郭と城下町10 日本城郭事典 現地案内板 その他雑誌)
















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