杵築城(台山城・勝山城・臥牛城)

杵築城(台山城・勝山城・臥牛城) 築城年明徳四年(1393年) 築城者木付頼直 種別 平山城
     大分県杵築市大字杵築字城山

杵築城は、石仏で有名な国東半島の南側に位置する、八坂川と高山川が守江湾に注ぐ河口の台地に、現在陸続きの半島となり、三層の模擬天守が昭和45年に建てられていますが、写真00412.bmp
明徳四年(1393年)木付氏四代頼直によって築かれました当時は、八坂川の河川の海中に浮かぶ周囲が断崖となっている溶岩台地の島でした。その形状から台山城とも称されました。
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この城は二度敵に攻められたが、常に寄手の軍を撃退して勝山城と賞賛された戦史で有名な城です。初回の戦いは、天正十四年(1586年)十月、島津軍は大挙して豊後に攻め入り、大友支配下の諸城を次々と攻略して、府内から大友義統を豊前宇佐郡龍王城に追い落とし、余勢をかって速見郡に入り、日出・深江城を攻略、木付城に攻め寄せたのは、島津の重臣新納武蔵守忠元軍二千五百の精兵であった。
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島津軍は一挙にもみ潰そうと攻めたが、天険の要害であり、海上よりの攻撃も失敗、二ヶ月にわたり釘付け状態となった。
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やがて、秀吉援軍南下の報で杵築城攻略を断念した島津軍が退却にかかったところ、好機と見た木付鎮直は、翌天正十五年二月二十二日、城から打って出て、激しく追討ちをかけ、島津軍は総崩れとなって敗退した。
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次の合戦は慶長五年(1600年)九月、旧国主大友義統は西軍に加わり、東軍の細川忠興の持ち城で、松井康之、有吉立行の西将が守る木付城に攻め寄せた。
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大友軍は旧臣宗像掃部助鎮継を大将に、郡内土民を合わせ五千~六千の多勢となって、城下を焼き払い、大手の木戸、逆茂木を破り、二の塁に攻め入り落城寸前のところ、黒田如水軍三千が海上より援軍として到着した。
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大友軍は十一日囲みを解いて別府立石へ陣を張り、十五日、石垣原合戦で黒田軍に敗れた。寛永九年(1632年)小笠原氏を経て、正保二年(1645年)以降、能見松平氏三万二千石の居城として明治に至る。
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明徳四年(1393年)に大友氏の一族である、木付頼直が築いたと言われています。その約二百年後の天正十四年(1586年)十月、薩摩の島津家久は豊後の大友宗麟を猛襲、大友義統の拠る府内城を落とした威勢で杵築城に殺到した。
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木付(大友)氏十六代の鎮直は二ケ月の間この堅城に拠って防戦した。その間に豊臣秀吉の島津征討軍来援の報が入ったので宗麟も危急を脱することができました。
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しかし、文禄二年(1593年)大友義統が秀吉に幽閉されると鎮直の子統直が切腹、木付氏は滅んだ。
写真00416.bmp杵築城模擬天守は、松平家の遺品などを展示する資料館ともなっています。三階からの眺望は素晴らしく、良く晴れた日には、豊後水道を隔てて四国の佐田岬が望める。
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(参考史料 日本城郭大系 現地案内板 城郭と城下町10 その他雑誌)








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