打吹城(うつぶきじょう)

打吹城(別名 倉𠮷城) 築城年延文年間(1356年~61年) 築城者山名師義 種別 山城
          鳥取県倉吉市倉吉


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延文年間、山名時氏の代にその嫡子師義が田内城より移ってきて築いたと言われています。
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応仁の乱ののち、伯耆では山名氏の威令が行われなくなり、羽衣石城の南条氏、尾高城の行松氏らが代わって勢力を振い、
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出雲でも守護代の月山城主尼子経久が勢力を伸し、満を持して伯耆侵攻の機を狙っていた。
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大永四年(1524年)五月、ついに尼子経久破竹の勢いをもって伯耆に乱入し、山名氏の諸城を攻め落としていった。
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米子・淀江・天満・尾崎・不動ヶ嶽の諸城を席捲し、さらに打吹・堤・岩倉・羽衣石城をも攻略した。
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世にこれを「大永の五月崩れ」と言われています。
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城を追われた諸将は、その後、毛利氏の援助によりようやく城を奪い返すことができたが、
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それはただちに、毛利氏の勢力下に属する事になる。
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打吹城は倉吉市街地の南側にある標高204mの打吹(うつぶき)山山頂を中心に築かれています。
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山名時氏の子、山名師義が築城し、以後尼子氏の侵攻まで、伯耆山名氏の居城であったと伝えられています。
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豊臣政権下では南条氏が支配しましたが、元和元年(1615年)の一国一城により廃城となった。
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山頂部の他には、丘陵西側と北側に曲輪が多く見られます、山名氏の時代に山頂部付近、戦国期に丘陵西側、近世初頭に主郭と丘陵北側が、時期差をもって整えられたと考えられています。
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ちなみに打吹山は「羽衣伝説」の中で、母親である天女に聞かせるため、子供達が山上で太鼓を打ち、笛を吹いたことからついた地名とされています。
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JR倉吉線打吹駅を下りると、真っ正面に倉吉市のシンボルともいうべき標高204mの打吹山があるが、
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この山は北に小鴨川、東に竹田川を自然の堀とした男山で、打吹城はこの山に築かれていた。
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延文年間、山名時氏の代にその嫡子師義が田内城より移ってきて築いた城です。
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小鴨丸・備前丸さらに麓の居館跡を探策すると、いかに打吹山城が壮大であったかがわかります。
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最初に打吹山の東北にあったる田内城に入城、やがてこの地に築城し、守護所として伯耆支配の拠点としました。
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打吹山城址は、今は全山が公園となっています。整備された遊歩道がついていますが、頂上までのぼるには30分位かかります。
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この建物は城を模した展望台となっています。
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寛永九年(1632年)に池田光仲が、鳥取に入封すると、次席家老の荒尾氏が打吹山麓に陣屋を構えました。今の成徳小学校の地に置かれていた、石垣はその時のものです。
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(参考史料 日本城郭大系 城郭と城下町 現地案内板 その他雑誌)



























































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