鹿野城(別名 王舎城)

鹿野城(別名 王舎城) 築城年不明 築城者志加奴(しかぬ)氏 種別 山城
   鳥取県鳥取市鹿野町鹿野

鹿野城には亀井茲矩(これのり)が建てた「オランダ櫓」「朝鮮櫓」などの他地域にはない名称の櫓がありました。
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鹿野城は因幡山名氏配下の志加奴(しかぬ)氏の居城であります、天文十二年(1543年)の尼子勢の因幡侵入に際しては鹿野城が争奪の舞台になったといわれています。
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のちには毛利勢が城を奪い、城中に守護山名豊国の息女や重臣の一族を人質として閉じ込めていたこともあります。
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天正八年(1580年)及び翌九年の羽柴秀吉による二度の鳥取城攻めを経て、鹿野城は亀井茲矩(これのり)に与えられることになります。
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亀井氏は領国に腐心し、城下町の整備などを行いますが、元和三年(1617年)石州津和野に転封となり、城は破壊されてしまいました。
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妙見山と、その麓に城郭が建てられていたのが、元和元年(1615年)一国一城によって破却され、
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いまわずかの堀と、城山の山頂付近に残る石塁と、山麓の平坦地が城址を忍ばせています。
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もとは志加奴(しかぬ)氏の居城であった。
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のち亀井茲矩(これのり)によって手が加えられて近世城郭に改められた。
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妙見山の麓から中腹にかけて、二の丸・本丸・城山と幾段もの高低差をもって築かれていた。
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天正六年(1578年)は羽柴秀吉は亀井茲矩(これのり)等を先駆として、毛利氏の支城となっていた鹿野城を攻め落とし、羽柴軍山陰攻めの前線基地の役割を持ちました。
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亀井茲矩(これのり)は鹿野城の城番を命ぜられ、
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翌年の秀吉の再出陣までの間、鹿野城を守るのみでなく、近くの諸城を攻め落とし、これらの功により城主に任命されました。
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関ケ原の戦いの後、世の中がおちつくと、茲矩は城の大拡張を行いました。
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古い鹿野城は山頂に近い部分だけの山城でしたが、山麓を中心に本丸、周囲に薬研堀、内堀、その外側に外堀をつくり近世の城として面目を一新しました。
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その一方でまえからの山城を整備しました。城は、仏教思想に基ずく「王舎城」の名が、また櫓には南蛮貿易を物語る「朝鮮櫓」「オランダ櫓」の名が残っています。
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現在の鹿野中学校の場所に二の丸があり、グランドの場所に本丸が置かれていた。
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本丸の天守は12m四方で、甲の丸は15mに5.5m、二の丸は11mに7mの広さであった。他に三の丸・西の丸があり、内堀の外に出丸が築かれ、外堀を巡らしていた。
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西の丸の下には、オランダ櫓・朝鮮櫓と名づけた建物があって、海外貿易によって得た珍木だけを使って造った部屋があり、亀井茲矩はそこを居室としていたという。
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春の桜のころは城山全体が桜花で埋まる。九十九折の遊歩道を登ると、中腹に城山神社があります。頂上の近くには展望台が造られています。
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標高は148mで、それほど高くはありません。亀井茲矩は、インドの仏跡にならって、この山全体を鷲峰山(じゅぶせん)と呼び、城を王舎城、城下を鹿野苑(ろくやえん)と呼ばせていた。
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亀井茲矩は月山富田城を追われた山中鹿之助の家臣で、鹿之助の義兄弟であります。下町北表の幸盛寺は、亀井茲矩が鹿之助のために建てた寺です。茲矩のお墓は、明峰ケ鼻という小高い山の上にあります。
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参考史料 日本城郭大系 城郭と城下町 6 山陰の城館跡 現地案内版 その他雑誌) 




























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