福山城(別名 久松城)

福山城(別名 久松城) 築城年元和元年(1614年) 築城者水野勝成 種別 平山城
       広島県福山市丸之内

日本百名城の72番目です。訪問日1996年です。
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福山の地は、瀬戸内海の中央、干満潮の分岐線上の山陽道側の中点に存在し、
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古代から潮待ちの港が存在する航路の重要港湾でありました。
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この湾内に、芦田川が中国山地の水を集めて流れ下り、土砂を運んで扇状地を進展させていた。
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中世に入ると福山城が築城される孤島を中心にデルタが発展し、ここに木之庄・𠮷津庄の荘園が形成され、河口に近く草戸千軒と称する港、市場町が賑わっていました。
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江戸時代に入って、安芸・備後一円は福島正則の領有となったが、元和五年(1619年)改易となり、
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譜代の重臣で徳川家康とは従兄弟にあたる水野勝成が、備後南部十万石の地に封ぜられるのであります。
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瀬戸内から九州にかけての西国には毛利や島津などをはじめ、外様大名があふれ、これらの東上を拒む西国鎮衛の幕府坊衛の拠点が必要でありました。
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元和偃武の城割政策をとっていた幕府が、取り壊されていた伏見城の櫓や門を運んで新城建設を助けたのです。
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福山城は、山陽路にあがった天守のうち、もっとも武骨な五層天守でありました。
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復元天守はコンクリートなので望楼回廊の両覆いの板戸・腰板はなくなったが、空襲以前の天守は、これが印象的であった。
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さらに北面はすべて鉄板を張って黒ずみ、五層各重のていげん率が小さくずんぐりした質実剛健な外容であった。
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元和六年(1620年)五月には、大洪水に見舞われ、人柱伝説を生むほどの難工事であったが、同八年ともかくも完成、
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この時から福山と呼ばれる、城主の居所となった本丸、二の丸は内堀と二重の石垣があり、
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本丸の五層六階の天守は、付け櫓を有する複合天守で、江戸時代築城の天守としては随一の作品との評価があります。
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北面の外壁を搦手の手薄と、風雨を防ぐ方法として鉄板張りで、他に例のない天守であったが、戦災で焼失、今は復興天守となっています。
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三の丸には藩庁たる御用屋敷や家老屋敷などがあり、外堀を隔てて武家屋敷、寺屋敷、町人町を配された。
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武家屋敷は、元緑十一年(1698年)の分限帳では二千五百八十人とあり、それ相当の家臣団居住させるから、広さも町人町の三倍に及んだ。
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町人町は城の東側に、海から城堀まで通じた入川を挟み、南北二区に分かれ、職能による町立てが見られる。
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武家屋敷は町人町を囲む形をとり、城下の四方周辺部には寺社が配置され、城下全体は西の芦田川、東北の吉津、薬師川が自然の防衛をなしていた。町人については、三河刈谷大和郡山から水野氏に従ってきた者もいるが地子、諸役免除の特典に領内近国から来住したと言われている。
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(参考史料 日本城郭大系 日本城郭事典 城郭と城下町7 その他雑誌)

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