大可島城(別名 要害)
大可島城(別名 要害) 築城年康永元年(1342年) 築城者岡部出羽守 種別 島城(水軍城)
広島県福山市鞆町古城跡



鞆港入口の北に突出した標高10mの小さな陸繋島(りくけいとう)に築かれた城で、

元は独立した島であった。


この島に城が築かれたのは南北朝動乱の時期と思われ、

鎌倉時代末期の乾元元年(1302年)に都を発ち、

旅の道すがら見聞したこと記した中院源雅忠の女二条の「とはずがたり」によると、

この島には鞆浦の遊女が世を逃れて庵を結んでいたことや、

その遊女の長者のことなどが記されている。

康永元年(1342年)に、北朝方の細川頼春の攻撃を受けていた伊予川之江城の救援に赴(おもむ)く途中の南朝方伊予衆は途中の海上で備後の北朝方と語らい、

西国経営の拠点にしょうとして鞆を占領し、

大可島(たいがしま)を詰城として拠点を構えた。

康永元年(1342年)四国伊予を拠点とする南朝方と備後一帯に勢力を持つ北朝足利方が燧灘(ひうちなだ)で合戦となり大可島城にこもる南朝方は全滅しました。

その後、戦国時代村上水軍の一族が大可島城を拠点に、

海上交通の要所である鞆の浦一帯の海上交通の要所である鞆の浦一帯の海上権を握っていました。

慶長年間(1600年頃)鞆城を築いた時、陸続きとなった。

現在ある南村山釈迦院園福寺は、真言宗でこの年代に建てられました。

本堂前一段低い郭様の場所には、

康永元年の合戦で南朝方として討死したと伝える備後の豪族桑原一族の墓という五輪塔があります。

また、本堂周辺を取り巻く平坦地は郭の跡と思われます。

鞆の浦は宮崎駿が映画「崖の上のポニョ」の構想のために鞆の浦の海に隣接した崖の上の一軒家に二ヶ月間滞在しできた映画が崖の上のポニョだそうです。

(参考史料 日本城郭大系 現地案内版 その他雑誌)
広島県福山市鞆町古城跡


鞆港入口の北に突出した標高10mの小さな陸繋島(りくけいとう)に築かれた城で、

元は独立した島であった。


この島に城が築かれたのは南北朝動乱の時期と思われ、

鎌倉時代末期の乾元元年(1302年)に都を発ち、

旅の道すがら見聞したこと記した中院源雅忠の女二条の「とはずがたり」によると、

この島には鞆浦の遊女が世を逃れて庵を結んでいたことや、

その遊女の長者のことなどが記されている。

康永元年(1342年)に、北朝方の細川頼春の攻撃を受けていた伊予川之江城の救援に赴(おもむ)く途中の南朝方伊予衆は途中の海上で備後の北朝方と語らい、

西国経営の拠点にしょうとして鞆を占領し、

大可島(たいがしま)を詰城として拠点を構えた。

康永元年(1342年)四国伊予を拠点とする南朝方と備後一帯に勢力を持つ北朝足利方が燧灘(ひうちなだ)で合戦となり大可島城にこもる南朝方は全滅しました。

その後、戦国時代村上水軍の一族が大可島城を拠点に、

海上交通の要所である鞆の浦一帯の海上交通の要所である鞆の浦一帯の海上権を握っていました。

慶長年間(1600年頃)鞆城を築いた時、陸続きとなった。

現在ある南村山釈迦院園福寺は、真言宗でこの年代に建てられました。

本堂前一段低い郭様の場所には、

康永元年の合戦で南朝方として討死したと伝える備後の豪族桑原一族の墓という五輪塔があります。

また、本堂周辺を取り巻く平坦地は郭の跡と思われます。

鞆の浦は宮崎駿が映画「崖の上のポニョ」の構想のために鞆の浦の海に隣接した崖の上の一軒家に二ヶ月間滞在しできた映画が崖の上のポニョだそうです。

(参考史料 日本城郭大系 現地案内版 その他雑誌)
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