備中高松城

備中高松城 築城年元亀元年(1570年頃) 築城者石川氏 種別 平城(沼城)
      岡山県岡山市高松

高松城は天正十年(1582年)に羽柴秀吉によって戦術上特異な水攻めを受けたことで有名な城です。
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この城は、戦国期に織田・毛利の二大勢力が雌雄を決するうえで、重要な戦略的な地点にあったのです。
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高松城は、備前・備中の国境線に近い賀陽デルタ地帯のただ中にあります。
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城の北には標高286.9mの龍王山がそびえ、
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東には、名越山・三光山など標高200m前後の峰が南北に連なって国境線を形作っています。
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そして、丘陵に西には足守川が南流して、その両側は肥沃(ひよく)な沖積平野となっています。
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古地形を復原すると、高梁(たかはし)川の一支流もまたこの辺で西から東へと流路をとっていた。
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城はちょうどこれら河道の後背湿地帯に立地していた。「高松古城の図」に「沼」と記され、
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一般的に堀の存在を想定される地点は、旧河道の影響にやってできた沼地であった。
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この場所はまた、西国のおける東西の中間点で、南北を結節する要衝でもあった。
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南約2.5kmの所には旧山陽道が東西に走り、西約1kmを南へ流下する足守川の沿線は、
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大山道といって伯耆(ほうき)と備中とを結ぶ間道でもあった。
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したがって、この河道の両岸に「境目七城」と言われる境目城が備前宇喜多氏に備えて毛利氏によって造られた。
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また、この七城が、のちに羽柴秀吉に対する守城とされたことも当然のことであります。
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河道の両側、南北11kmにわたって、北から宮地山城・冠山城・高松城・鴨城・日幡城・松島城・庭瀬城と七つの城が配置されていました。
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高松城は、天正年間(1573年~92年)以前に三村氏の武将で備中半国の旗頭であった石川氏によって築城され、
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のち、石川氏の娘婿になった清水宗治が継ぎ、天正十年(1582年)に羽柴秀吉の侵攻で開始された高松城の戦いのあと和睦となって秀吉の城番として杉原七朗左衛門尉が在城した。
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この後宇喜多氏の武将花房正成が居城したが、
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その時、城は大改修された。慶長五年(1600年)の関ケ原合戦後は家中騒動で追放された旧宇喜多氏の武将花房職之が徳川氏の旗本となってこの地を与えられ、入部した。
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城は沼沢地に臨む平城(沼城)で、石垣を築かず土壇だけで築成された「土城」である。
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城の周辺には、東沼、沼田などの地名に象徴されるように、沼沢が天然の外堀をなしていたのが窺われる。
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縄張りは、方形(一辺約50mの土壇(本丸)を中核にして、堀を隔てて同規模の二の丸が南に並び、
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さらに三の丸と家中屋敷とが、コの字状に背後を囲む単純な形態であります。本丸跡は江戸時代初期にも陣屋として活用されていました。
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本丸跡には明治末年に移転改葬された清水宗治の首塚があり、北西の家中屋敷跡の一画に宗治の遺骸を埋葬した胴塚も残されています。
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築提跡は蛙ケ鼻に現在も一部残存しています。
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(参考史料 日本城郭大系 山陽の城 現地案内版 その他雑誌)

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