岸和田城

岸和田城(別名 千亀利城) 築城年建武年間(1334年~1338年) 築城者和田高家 慶長五年(1600年) 小出秀政 種別 平城
     大阪府岸和田市岸城町

岸和田の地名は、楠木正成が、和田高家に命じてこの地を治めたのに由来すると言われています。
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吉野に住む和田氏に対して、海の近くに住む高家の一族を「岸の和田」と呼び、それが地名となったというのです。
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現に岸和田城の東方の和田氏の城跡と伝える丘があり、古城址・古城川・古城橋などの名が残っています。
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その後、岸和田衆と呼ばれた松浦一族が、この地を支配し、古城址からいまの岸和田城のあるあたりに移ったが、
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城郭が整備されたのは、天正十三年(1585年)小出秀政が三万石で入封して以来のことであります。
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秀政は泉南や根来・雑賀(さいが)の一向一揆で荒廃していた城と城下町の立て直しに力を注ぎ、
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泉南統治の拠点にふさわしく、その後、元和九年(1623年)松平康重(やすしげ)が丹羽(兵庫県)から五万石で入城した。
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岸和田は大阪の南に位置するが、畿内進出拠点として、紀井国からの北上におさえとして、または四国からの進出の足場として様々に重要な土地でありました。
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現在、大阪の南の主要市街地は、堺・高石・泉大津・泉佐野と数多く、これらが海岸沿いにベルト状にどこまでも続いているが、岸和田もその延長線上にあります。
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岸和田が大阪の他の市街地と違う点は、そこに水堀を四方に巡らした石垣の中に三層の天守閣が建っているという点であります。
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かっては五層の天守が上がっていたが、それでも立派な一大城郭で、形式は伊予の今治城によく似ていて、いかにも水城という感じがでています。
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岸和田は古くは「岸」と称し、建武年間(1334年~1338年)、楠木正成が摂津、河内、和泉三国の守護になり、一族の和田高家が岸和田城を築いた。尚、岸に和田氏がこの地に入ったため岸和田と呼ばれるようになったと言われている。天正年間に入ると、信長と紀伊の雑賀(さいが)、根来の一向宗征の対立が深まり、信長は中村一氏を岸和田城に入城させた。しかし、本能寺で信長亡き後、雑賀、根来衆に攻められて、大打撃を受けてしまう。
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その後、秀吉が大軍を率いて雑賀、を潰滅させ、岸和田城に小出秀政を入城させた。秀政は五層の下見板張りの天守をあげ、本格的な近世城郭に築きあげた。元和五年(1619年)、小出氏に変わって松平康重が入城。松平氏は城下町の整備に力を注ぎ、また伏見城の櫓や門を岸和田城の二ノ丸北隅に移築させた。
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(参考史料 日本城郭体系 日本城郭事典 その他雑誌)





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