服部半蔵生誕の城

千賀地城(千賀地氏城) 築城年室町時代 築城者千賀地(服部)半三保長 種別 丘城
     三重県伊賀市予野字上田

国道368号線(バイパス)を菖蒲池2をおりて県道686号に入り予野集落方面に向かい丁字の交差点に突き当たります、それを右に曲がり少し行くと道路沿いに千賀地氏城(ちがちしじょう)跡の石碑があります(写真二番目)そこを左に入ると右側一帯が城跡です。
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集落の両側の丘陵が迫り谷状となっています。
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この両側の丘陵には十四もの小城が群立しています。
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集落に入ると最初の城が千賀地氏城であります。路傍に千賀地氏城址の碑が建っていますが、この辺りを上出とよんでいます。
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旧字は近地谷(千賀地谷)といったと言います。
服部平内左衛門家長の流れを汲む服部保長は足利氏に仕えていましたが、故あって当地に移り、地名を姓としてここに城を築いたと言われています。
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保長の子服部半蔵正成は、早くから伊賀を出て徳川家康に仕え、天正十年(1582年)本能寺の変が起こると家康を助け、伊賀山中から四日市に送り四日市から海路をとって岡崎に無事送った。
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半蔵はのちに与力百五十騎、伊賀同心三百を支配下に置く旗本八千石に栄進し江戸城半蔵門にその名を残しています。
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半蔵は慶長元年(1596年)に死去、その子正就が跡を継いだが部下の統率を乱して同十年、失脚しました。
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千賀地氏城址は、20m四方の平地をもち、東・西・北の三方に土塁を巡らし、北側の丘陵を堀り切っている。本郭内には服部半蔵、藤堂采女(上野城代家老)「誕生の地」の大きな石碑が建てられるなど、地区の小公園として保存されています。
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千賀地氏城は、室町時代後期に千賀地(服部)保長によって築かれた。服部保長は足利氏に仕えていたが故あってこの地に移り、地名から千賀地氏を名乗った。
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保長の子服部半蔵はこの地で生まれる。以後、徳川家康の家臣となります。
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千賀地氏城は、東西の丘陵が迫る千賀地谷(近地谷)の中にある平野地区、地区の西側の丘陵には土豪の城が三城(木原氏城・浅井城・千賀地氏城)があります。
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千賀地氏城が地区の公園として整備されていて一番遺構が見やすい城です。南を除く三方に土塁が築かれ、更に北側の丘陵を堀切りで切り離した縄張りとなっていあmす。
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郭内には、服部半蔵と上野城代となった藤堂采女誕生の石碑が建てられています。(参考史料 日本城郭大系 その他雑誌)





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この記事へのコメント

2021年05月03日 16:19
廃れた街なんですね。
城きち
2021年05月07日 14:14
一般人さん
コメント有り難うがざいます。伊賀の里山は山深い所にあり各部落ごとに沢山の砦跡があります。