釜蓋城

釜蓋城(かまぶたじょう) 築城年永禄十一年(1568年) 築城者千々石(ちぢわ)淡路守 種別 山城
           長崎県雲仙市千々石町小倉名城山

千々石(ちぢわ)の町の背後には九千部岳・吾妻岳の雲仙連山がそびえ前面には千々石湾が展開しているが、
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釜蓋城はその中間にあたる小倉名にあたる小倉名の高台に位置していた。
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この地は島原半島西目口の要衝で、当城は永禄十二年、有馬氏の一族千々石淡路守直員によって築かれた。
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千々石直員は若年の頃から有馬氏と龍造寺氏との度々の合戦に出陣し、
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特に永禄六年(1563年)の横瀬浦の焼き討ちには兄の大村純忠(すみただ)を裏切って、後藤氏に従って戦った。
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元亀元年(1570年)、有馬氏の横造城の加番中に千々石直員は龍造寺氏の攻撃を受け、石切谷の戦で壮烈な討死を遂げた。
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そして、その跡は大和守澄員が継いだ。
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そののち、天正五年(1577年)、龍造寺隆信が数万の兵を率い島原半島に来襲し、その一隊によって釜蓋城も攻撃を受けた。
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大和守澄員は力戦し防戦につとめたが、衆寡敵せず、老臣木戸万九朗と共に自刃した。写真00859.JPG
一方、家臣の町田兵七郎も別動隊として奮戦していたが、澄員の自刃を聞き、自らも多くの傷を受け、一旦血路を開いたものの、
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ついに城の西、河内の大石の上に端座して切腹し、殉死したと言われる。
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天正遺欧使節の一人千々石清左衛門は、この大和守澄員の子であります。
写真00873.JPG城跡の付近には東城平・北城平・上狩場・下狩場・大堀などの小字が地名として残っており、
写真00874.JPG麓には、日露戦争の際に軍神とたたえられた橘中佐を祀る橘神社があります。
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室町末期乱世の頃、原城構築者有馬貴純の族臣淡路守が主命により半島西口の要地である千々石に来り領した。そして小倉城山を築いた。
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これが釜蓋城であります。時に永禄十二年であります。その後有馬晴信の代に、淡路守の子千々石大和守直員が父の跡を継いだ時、
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天正五年(1577年)龍造寺隆信は数万の兵を以て半島に迫り一隊の部将は千々石釜蓋城に攻め寄せた。・・・(中略)・・・城将大和守は頗る胆力があり、
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急を村民に伝えて堅く守り老臣木戸萬九朗と力戦大いに勉めたけれども衆寡敵せず、刃折れ矢尽きて自刃した時二十五歳。「以上千々石町史より」
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日本の文化史上忘れてはならない先駆者、天正遣欧少年施設の一人千々石清左衛門直員はこの釜蓋城千々石大和守の忘れ形見であり天正十年(1583年)有馬家の代表として、
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大村、大友の両大名から選ばれた少年使節とともに万里の波涛を超えてローマ法皇に謁見し八年の歳月をかけて歴史的使命を果たした。
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(参考史料 日本城郭大系 現地案内板 その他雑誌) 







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