古城と野鳥

アクセスカウンタ

zoom RSS 静岡県の古城・葛谷城

<<   作成日時 : 2018/06/09 14:54   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

葛谷城 築城年室町時代 築城者今川氏 種別 山城
     静岡県富士宮市下稲子・山梨県南部町十島
   
画像
葛谷城は古くは駿河国と甲斐国の境にある城であった。
画像
両者を結ぶ県道は今日南側の富士川にやや寄って走っているが、その山林中に旧道が残っており、その峠付近を葛谷峠と呼んでいる。
画像
この峠を含む丘陵は、北方より細長く南へ伸び、その先端を迂回して富士川が大きく湾曲し、対岸には一段と高い白鳥山がそびえている。
画像
この丘陵の頂部を中心の南北の裾部の地下を現在身延線が貫通している。
画像
城郭はこの葛谷丘陵の頂部を中心に南北に施設されていた。甲駿国境の標高235mの尾根上に主郭を構え、その周囲に多くの塁段や堀割などを設けた要害堅固な山城である。
画像
その規模は遺構のある部分のみでも南北約150m、東西約80mにも及び、西麓の大濠を含めると東西もまた150mを越えることになる。内容からすれば、甲斐の武田氏にしても、駿河の今川氏にしても、峠の通路を扼する。戦略上重要な拠点をなす境目の城であるが、一体どちらで築城したのであろうか。主郭の造り方や、その北、東、南三方を深い堀割や高い塁段(帯曲輪)で固めていることは、西側の武田方が対今川の施設として造成したことがまず考えられる。
画像
孤状、鍵の手状、その他屈曲する横堀が周囲を囲み、その間を分断して各所に竪堀を配していることは、それがすべて空堀である点、守兵が左右、上下に移動し易い機動性を備えている。これが典型的武田式の築城法ともいえる。しかし、一方西麓に深く大型のV型濠西外掘りを設けている点は、甲斐側からの攻撃に備えたものであり、また、北の大堀南側の盛り土から発見された旧掘が、屈曲して下方が稲子の方を向いており、駿河側から搦手の通路とも考えられる。しかもこれが意識的に埋められていることを思うと、当初は今川方で造成したことも考えられる。
画像
南部町教育委員会は、ここ葛谷峠に戦国時代の狼煙場や武田信玄の供養塔があったことから、昭和五十二年に「葛谷峠狼煙場跡」として町の文化財に指定した。その後、この周辺全体が静甲工業株式会社の所有地となり、その開発に伴い、この史跡が消滅する恐れが出たので、南部町では文化財保護法に基づき、同社の前面的な強力を得て「葛谷峠埋蔵文化財発掘調査団」を組織し、平成二年から同三年にかけて徹底した発掘調査を実施した。その結果、ここは土塁を巡らせた一の曲輪、二ノ曲輪、東の曲輪や周りを取り囲んだ遺構であることが判明した。戦国時代の永正十二年(1515年)頃、駿河の国主今川氏によって築城された山城は、永禄十年(1567年)以後甲斐の国主武田氏によって規模が拡大され、再構築されたものと考えられる。(参考資料として静岡県の中世城館跡 日本城郭大系・9 案内板 その他)
画像







テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
静岡県の古城・葛谷城 古城と野鳥/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる