沖縄のグスク・中城城(なかぐすくじょう) 3 

中城城(なかぐすくじょう)の2に続き3を記載します。
第一尚氏の時代、琉球にはまだ戦乱がたえなかった。三山統一は基礎作業にすぎなかった。十五世紀に入ると、中山に十分な対応しうる英雄として、護佐丸がいた。読谷山(よんたんざ)いまはヨミタンという地方の山田城から座喜味城(ざきみぐすく)へ移って、しばらくいた。近くに長浜という貿易港が控えている。
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一説によれば、西海岸を日本から下ってくる船を、那覇港(中山の外港)へ着く前に抱き込んだのだともいわれる。つまり、この時代の対立抗争は貿易権争奪戦であったといわれています。
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同じ頃、東海岸の勝連半島にも按司(あじ・豪族)がいた。これは東海岸の貿易権を握っていた。座喜味の護佐丸はやがて1440年、東海岸の中城城に古くからあった城を増築して移った。面積一万三千平方メートル。三の丸まであるが、堂々たる石垣だけ残っている。
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中城城は首里城と勝連城とを結ぶ線の、ちょうど中間にある。勝連城の按司(あじ)が首里城へ攻めのぼるのを防ぐためだとともいい、東海岸の貿易権を狙ったのだともいう。
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1451年、尚巴志(しょうはし)の第七子泰久(たいきゅう)が第一尚氏第六代の王位についた。
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時に勝連城の城主は阿摩和利で、一介の百姓の身で勝連城を乗っ取た英雄であった。阿摩和利は首里を狙い、そのために中城の護佐丸が邪魔になった。
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尚泰久としては、しばらくは護佐丸を楯として阿摩和利を防いだことになる。しかし、護佐丸と阿摩和利の、いずれが尚泰久の味方であったかわからない。その証に、尚泰久はやがて、娘の百登踏揚(ももとふみあがり)を勝連城の阿摩和利に嫁がせた。政略結婚なのだろう。阿摩和利のほうで望んだ事だろう。
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護佐丸が滅びた後、次は尚泰久と阿摩和利との対決です。その伏線はしかれていた。王女、百登踏揚が阿摩和利に嫁したとき、付き人として同行したのが大城賢雄(おおぐすけんゆう)という豪傑であった。
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そのうち阿摩和利に首里へ反逆の志があることを悟り、踏揚と賢雄とは相たずさえて勝連城を逃げ出し、首里へ向かった。阿摩和利は軍勢を出して、二人を追わせた。夜のことです。中城の和仁屋(わにや)の辺りで、あわや追いつかれようとしたとき、踏揚が神歌をうたって祈ったところ、雨風が起って勝連勢のたいまつを消し、二人は逃れた。
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「勝連の阿摩和利が攻めてきます」二人は尚泰久の言上した。泰久ははじめこれを信じなかった。しかし、ここでも二人は神歌を歌って身の証をたてた。尚泰久は急ぎ周辺に合して援軍を集めた。
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阿摩和利は、勢いを駆って首里へのぼり、城を囲み火を放った。敵味方が入り乱れての激戦になったが、阿摩和利はついに敗れて去った。
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「座喜味城の護佐丸」という敵がいしんが、国王尚泰久の胸から消えたことはなかった。1454年に国王に就任する前、越来(ごえく)の城主であったころからだ。国王、というけれども当時の琉球での慣例にしたがえば、「中山の世の主」と称するのが正しい。
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沖縄島に、中山を挟んで南山・北山とある。この対立抗争がおよそ百年。泰久の父、尚巴志がようやく北山を、ついで南山を武力で滅ぼして、いわゆる「三山統一」をなし遂げたのが、1429年です。日本では室町幕府、足利将軍の頃です。
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三山の対立抗争とは、ひとつの見方をすれば貿易権の争奪戦であった。その頃の世の主達は、それぞれに明国や東南アジヤや朝鮮と交易をしていた。尚巴志は、もと島の南東にあたる佐敷(さしき)に育ったほとりの按司にすぎなかったがここには馬天という良港があって、貿易の利を蓄えることができた。
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それに軍事の天才をそなえていた。やがて中山の世の主として、父の尚思紹(しょうししよう)を据えた。そこで明国に貢ぎ物を献じて明の皇帝から尚姓を賜った。第一主尚氏のはじめである。
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中山、首里城の創建はこの前後の事と思われる。明らかではないが、規模は一番大きい。三山統一の覇者となるにふさわしいかったが、この頃すでに、読谷山地方の座喜味には按司の護佐丸がにらみをきかしていた。
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護佐丸の娘が尚巴志の妻ともいうが、泰久の妻としたほうが、わかりよい、つまりは政略結婚にちがいないのだが、のちに泰久は護佐丸を討つのであるから、その際、血のつながった祖父を討つというのは、戦国とはいえいかにも酷すぎる。
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三山統一はなし遂げたものの、地方の情勢はまだ不穏であった。中でも六代目尚泰久の代になって気をつかったのは、首里城から北の方である。遙か北の今帰仁(なきじん)にある北山に、父王の尚巴志あその子尚忠をおいて、血族連帯による安全をはかった。
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それはまずよい。その北山と首里城との間に、西の座喜味の護佐丸は、これも尚巴志に劣らず軍事の才にたけていた。護佐丸の強みは、座喜味の近くに長浜港が控えていることだ。
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日本や中国との貿易を、ここで行った。とくに日本からくる貿易船は、山の近くの運天港のつぎは、この長浜港に。寄る首里城尚泰久にとっては、目の上のこぶにならざるをえない。軍事上の危険に加えて、貿易上の不利があった。
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北の郭にある大井戸(うふがー)。西の郭には夫婦井戸(みーとうがー)と呼ばれる二つの井戸がある。城郭内に水を確保していることが、この城の特徴です。 
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ウフガー(大井戸)は、別名・バンジュガー(番所井戸)とも呼ばれています。元々城郭の外側にあった水場を護佐丸が、城内に取り込むため北の郭を増築して井戸を造ったと考えられます。   
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これまでの発掘調査により現在見られる井戸の石積みは、16世紀以降に造られたものであるということが判明しています。
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中城城跡は、1972年5月15日(日本復帰の日)に、国の史跡に指定されました。指定面積は約33,400坪でその内約4、300坪が城郭の面積です。2000年12月2日「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして世界遺産にも登録されました。




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