天ケ城(別名 高岡城・内山城)

天ケ城(別名 高岡城・内山城) 築城年慶長五年(1600年) 築城者島津義弘 種別 山城
          宮崎県東諸県郡高岡町大字内山
   
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標高120mの天ケ城公園は、宮崎市高岡町の市街地を眼下に、
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西に霧島連山、東に日向灘、宮崎市街地が望めるこのような地の利を利用して昔は島津氏の出城(山城)がありました。
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伊東氏と島津氏の戦の場となったところです。
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この大字内山を中心とする地方を古くは久津良と称し、
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城も内山城と呼んでいました、
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慶長五年に薩摩の領主島津義弘が関ヶ原の合戦で敗れて帰る途中、船で細島に上陸し、
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十月一日に八代(国富町)の福島佐渡介宅に一泊しましたが、その夜、伊東氏の将で清武城主稲津掃部助が延岡領の宮崎城を陥れ、島津領八代、三名(さんみょう)に放火した。
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義弘は直接にこれを見て深く考えるところがあり、去川の関の外にある島津領の諸郷を守るため、
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この地方に大郷を設立する必要を痛感し久津良の内山城を天ケ城と称し、その麓に高岡郷を設けて、薩・隅・日三州の武士七百三十余戸をここに移させた。
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そして比志紀伊守国定を初代の地頭とし、この城を関外四ケ郷の本城とした。
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城は南に大淀川を控え、東は支流飯田川を巡らし、西は谷に臨み、北は水田に面し、
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高さ121mの山頂に本丸ほか六区に分かれている。
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本丸の南側に二の丸、西端の北側に北の城、南側に西の城がある。
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元和元年(1615年)に廃城となったが地頭は続いた。
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島津義弘は慶長五年(1600年)天下分け目の関ケ原の合戦では石田光成方の西軍につき、
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合戦の様子を眺めていたところ、東軍の徳川家康が大勝したため、敵陣突破を強行して命からがら日向細島を経て帰国の途中、八代村に守泊。
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徳川家康の勝利が全国に知れ渡ると、島津氏と長年にわたって戦ってきた日向伊東氏の重臣たちは
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「島津氏を滅ぼし、伊東氏の旧領を取り戻すのはこの時」と考え、兵を率いて島津義弘が守泊している八代村に向かって進軍。
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これに対して島津領内の武将達が取るものもとらず八代村に兵を進め、ようやくのこと伊東側の兵を食い止め、島津義弘は兵数十名を引き連れて八代村を脱出鹿児島城にたどり着くことが出来た。島津義弘はこの事件から国境警備の必要性を痛感し、北方の伊東氏に備えるため、久津良名(現在の高岡町)に城を築き「天ケ城」と命名する。比志島国貞を初代城主とし、島津氏との関係が深い武士多数を強制移住をさせた。やがて、徳川幕府の時代となり、元和元年(1615年)の一国一城令によって天ケ城は廃城となる。
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現在は模擬天守閣があり天ケ城歴史民俗資料館となり桜の名所として知られています。










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