米多城(めたじょう)

米多城 築城年戦国時代後期 築城者姉川氏 種別 居館
    佐賀県三養基郡上峰町前牟田字館

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該地一帯には、平安期に宇佐八幡宮領「米多庄」が成立し、鎌倉期になると大宰府安楽寺領が並立していた。
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ここから僅か500m北西に離れた場所に平家政権による日宋交易の拠点となった神崎荘の中心と推測される下中枝遺跡(吉野ヶ里町)がある。
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該地もその経済的影響を受けつつ、中世初頭から開発・開村が進展したものと考えられる。
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しかし、荘地の経営に直接携わった名主層や在地領主などの活動を示す史料はほとんど見出せない。
戦国期になり、東肥前の制覇を担う龍造寺隆信は、永禄三年(1572年)に横岳氏の西島城囲むものの攻略を断念して帰陣する。
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その際、崎村(神埼市千代田町)城主大塚家廣を中津隈城に、姉川(同市神埼町)城主信安を「米多」にそれぞれ移して、IMG_4502.JPG横岳氏に対する押さえとしたと「北肥」巻20は著述している「鎮西志」巻15でも、姉川信安に「百町ヲ加村シテ米多ノ城ニ居オキ」と記す。
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これを証する直接な史料は認められないもの、信安没後の姉川氏に対する押さえとしたと「北肥」巻20は著述している。
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米多集落の中央の小字を「館(たち)」というが、IMG_4507.JPG
その中央よりの一角(前牟田地区学習等供用施設の西側一帯)の宅地・畑地が城の中心となる。
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現在は西辺の濠の大部分が埋没していて、聞法寺境内と陸続きとなっているが、IMG_4509.JPG亨和元年(1801年)「三根郡西島郷坊所郷図」(県図)及び明治21年地籍図を参考にすると、主郭は南北100m✖東西70mの方形プランを基調とするものと理解できる。
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ただし、南西隅から西へ延びる東西60m、幅20m弱の長い半島状地形があり、IMG_4511.JPG
南東隅には南北35m✖東西50mを測る「出丸」相当の張出し部が付随していて、全体としては歪な凸状の平面形をなしている。
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曲輪内部はさらに溝などで細分化されていて、不可思議な突出空間との分離が果たされていたと思われるが、古絵図を見ると中央に畑地の表示があり、30✖40m程度の微高地があったことが窺える。IMG_4519.JPG
(参考史料日本城郭大系 その他雑誌より)






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