臼杵城(別名・丹生島城・亀城・亀ケ城)

臼杵城(別名・丹生島城・亀城・亀ケ城) 築城年永禄五年(1562年) 築城者大友義鎮(宗麟) 種別 平山城
       大分県臼杵市大字臼杵

写真00125.JPG
臼杵城は臼杵湾に浮かぶ周囲四キロ余の溶岩台地の丹生島(にゅうじま)に永禄五年(1562年)に大友宗麟によって築城されました。
写真00083.JPG
大友氏は前年の四年(1561年)北九州門司の合戦で毛利氏に敗れ、府内の大友館ではその追撃を防ぎきれないと見ての臼杵築城であったというが、それは南蛮貿易の基地としても最適地であったゆえ。
写真00115.JPG
府内には大友家当主義統を置き、ここはいわば宗麟の隠居城であったが、事実上豊後の中心地となって繁栄し、
写真00082.JPG
豊前・豊後・筑前・肥前・肥後の六ヵ国と日向、伊予の一部を支配する最盛期を迎えた。
写真00081.JPG
日向にキリストの理想国建設を夢見た宗麟は、
写真00085.JPG
天正六年(1578年)十一月十二日、日向に出兵、高城・耳川合戦で島津義久・義弘・家久の連合軍に大敗して以降、急速に勢力が衰え、
写真00086.JPG
ついに島津軍の豊後乱入となり、同十四年(1586年)十二月五日臼杵城攻撃が開始された。
写真00087.JPG
永禄五年(1562年)大友義鎮(よししげ)は、それまでの府内(大分市)の館から、あらたに築いた丹生島城(臼杵城)に入り、この日出家して宗麟(そうりん)と号した。
写真00089.JPG
臼杵に城ができたのはこの時が最初です。
写真00092.JPG
当時の丹生島は臼杵川の河口に浮かぶ、東西二百三十六間、南北五十六間の、小高く細長い小さな島の姿が亀に似ていることから亀城(きじょう)とも呼ばれていました。
写真00093.JPG
城は本丸・二ノ丸・曲輪・空堀などによって形状され、周囲は水で囲まれていた。
写真00095.JPG
島の西端の南側に岸壁を切り落とした階段をつくり、大手口を設けて陸へ通じる唯一の橋を架けた。
写真00096.JPG
宗麟は天正四年(1576年)本丸に三層の天守を築いたというから城はこの頃に完成したものと思われる。
写真00097.JPG
海をそのまま堀にし、亀が水に浮かぶような姿をしたこの城は、小高い丹生島に築かれた平山城でありながら、
写真00098.JPG
また海城でもあります。現在は城址公園となり千本余の桜が植えられて、桜の花の名所となっています。
写真00099.JPG
臼杵城址は臼杵湾に望む小高い丘の上にあります。現在は市民の憩い場所となっています。
写真00101.JPG
永禄五年(1562年)、大友義鎮(宗麟)はこの丹生島の天険に目をつけ、将軍足利義輝に築城を願い出た。
写真00102.JPG
許可されるとただちに工事を始め、翌年の七月に完工委、八月には宗麟がそれまでの大友氏の代々の居城府内城(大分城)からこの城に移った。
写真00104.JPG
丹生島は現在南と西が陸続きになっていますが、この頃は四方を断崖に囲まれた要害の小島で、完全な水城でありました。
写真00110.JPGキリシタン大名宗麟はここで明やポルトガルなどの外国船と交易を行なった。
写真00109.JPG
大友が九州で巨大になったのは、この交易を通じて、当時、新兵器として渇仰された鉄砲、大砲それに火薬類を豊富に手に入れることができたからだと言われている。
写真00116.JPG
中でもポルトガルから入手してこの城に備えつけられた大石火矢(大砲)は、「国くずし」と呼ばれて諸武将に恐れられていたと言う。
写真00120.JPG
大友氏の後、福原直高、太田一吉と城主が代わり、慶長五年(1600年)からは、稲葉貞通が臼杵城主として入府し、明治四年(1871年)の廃藩置県を迎えるまで、稲葉氏が城主として臼杵を治めてきました。
写真00121.JPG
(参考史料 日本城郭大系 現地案内板 その他雑誌)
写真00130.JPG













この記事へのコメント