高知城(別名・大髙坂城)

高知城(別名・大高坂城) 築城年慶長六年(1601年) 築城者山内一豊 種別 平山城
       高知県高知市丸の内

高知城は日本百名城の84番目です。日本で現存する十二天守の中の一つになります。              訪問日は1993年5月4日です。
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本丸の建物がほとんどが現存する全国でも唯一の城で天守・本丸御殿・廊下橋・櫓門・多聞櫓など標高48mの山の上に建ち並びます。
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この天守には天守台がなくて本丸内から直接一階に入ることができます。
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本丸と二ノ丸、それぞれ独立性を持たせ、その間を廊下で結んでいます。最後まで攻防戦ができる完成度の高い近世城郭とのことです。
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早くは南北朝時代には大高坂松王丸という武将が城を築いていました。松王丸は南朝に属しており、暦応三年(1340年)、北朝勢の攻撃を受けて落城、松王丸は戦死した。
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その後、四国を平定した長宗我部元親も大高坂山に本城を築こうとした。
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しかし、浦戸湾の奥に位置し海運が不便なうえ、地形が不安定で度重なる洪水もあって断念し、浦戸に居城を構えた。
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高知という地形は浦戸湾に注ぎ込む鏡川・国分・久万・江口川などのデルタ地帯で、ひとたび水害に見舞われると水浸しになり、城造りは容易ではなかった。
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関ヶ原の戦で元親の子、盛親が西軍に組みして除封されると、山之内一豊の入国となる。一豊は長宗我部派の人心を一新するために大高坂山に築城を始めた。
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慶長六年(1601年)に工事に着手し、三年後に天守と二の丸の完成を見るが、この時、名を「高知」と改めた。
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城の完成は慶長十六年(1611年)でありました。本丸の天守は三層の堂々たるもので、享保十二年(1727年)に火災で焼失したため二十年かけて再建された。
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現在の天守はこの時のものであり、日本現存天守十二ある天守の一つに数えられます。本丸のすべての建築群が完存しているのは城郭多しといえども高知城のみであります。
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城山の南側、標高42mの山頂に本丸、その北に二の丸、その東側の下に三の丸が築かれた。西方には腰曲輪の外側に出丸が造られている。一豊は慶長十年に死んだが、同十六年になって三の丸も完工し、着工後十年にして、ようやく城郭の全容が整った。
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高知城は築城以来たびたび火災に遭い、享保十二年(1727年)の大火では、大手門など二、三の建物を除いてほとんど焼失してしまった。現在認められる天守などの遺構は、その後に再建されたものです。本丸にある天守は三層六階建て、外観を見ると三階建てで、内部は六階になっています。
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高欄の下の層の間を重要視して、四層六階と数える専門家もいます。屋根には、山内家の定紋と若葉の模様入りの瓦が使用されています。工法は井籠組みと呼ばれるもので、屋根は入母屋造りであります。再建当時の棟札には延享四年(1747年)
十二月上棟の日付と、大工頭笹村喜平次の名が見られます。
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「杉の段」の曲輪には山内一豊の妻見性院(けんしょういん)の銅像があります、見性院は小谷城主浅井長政の家臣若宮友興の娘と書かれています。妻は嫁入りの時の持参金で名馬を一豊に買い与え、それが元で信長の目に留まり出世するという逸話です。
(参考史料 日本城郭大系城郭と城下町8 案内版 その他雑誌)


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