大阪城

大阪城(別名 錦城) 築城年天正十三年(1585年) 築城者豊臣秀吉 種別 平城
    大阪府大阪市東区

大阪城は日本百名城の54番目です。  訪問日2000年(平成12年)12月です。
大阪城の位置する場所には、かって一向宗の総本山として石山本願寺がありました。
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しかし織田信長との長い戦いすえ、本願寺は天正八年(1580年)に紀州に移っています。信長に代わって天下人となった豊臣秀吉は、本願寺の跡地に、天下人にふさわしい壮大な居城を同十三年に完成させています。
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それが大阪城であります。秀吉没後、元和元年(1615年)の大阪夏の陣で、惜しくも炎上してしまう。その後徳川家康が、同六年から十年をを費やし、天下普請で西国六十四藩の大名を動員して、規模日本一の新しい大阪城を構築した。時代は異なりますが、二つの大阪城が在城したことになります。
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現在の大阪城は、昭和六年の築城で、三代目となります。
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屏風絵を参考にして秀吉時代の外観を忠実に再現したものです。櫓や門、石垣など残存の建物は多くありますが、中でも興味深いのは、蛸石や肥後石などの巨石や、石垣の各所に見られる様々な刻印でしょう。
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蛸石は、城内第一の巨石で、およそ三十六畳敷で推定重量130トン。岡山藩池田忠雄が担当したもので、備前産の良質花崗岩が用いられている。
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二ノ丸と本丸をつなぐ桜門形内にある。金明水井戸屋形は、豊臣秀吉が水質を良くするために、黄金の延べ棒を水底に沈めたといわれるもので「金明水」の名がつきました。
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重要文化財に指定されています。本丸天守入口にあります。
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金蔵もすぐ近くにありますが、入口はもとより、床・天井までが盗難や大災予防のために三重構造になっています。
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天正十一年(1583年)柴田勝家を滅ぼした秀吉は築城を開始した。
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浅野長政と増田長盛が奉行となり、三十余国の諸大名が参加、人夫の数も一日三・四万といわれる大工事でありましたが、
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本丸・二ノ丸の規模はさきの石山本願寺を踏襲したといってよい。翌年八月、五層八階の天守を建て、全城完成には三年半が費やされた。
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天守の内部は全て飾られ、軒瓦も金を用い、秀吉の桐紋が輝いていたという。こうしたことが、金城・錦城の別名になっています。
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しかし、秀吉が在城したのは数年に過ぎず、文禄元年(1592年)には伏見城を築いて移った。
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もっとも、朝鮮出兵の講和使節を迎えるにあたり、伏見城が慶長地震(1596年)のために崩壊したため、大阪城で会見が行われた。
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慶長三年(1598年)秀吉は伏見城に没し、子の秀頼は大阪に在城した。同十九年(1614年)、大阪冬の陣が起こり、一旦、和議が成立して堀は埋められた。翌元和元年(1615年)夏の陣には堀が埋められたため籠城戦ができず、野戦となって真田幸村はじめの有名な人物が次々と戦死、五月七日、秀頼の近臣、大隈与左衛門が大台所に放火、火は瞬く間に城内に燃え広がり、秀頼は糒(ほしい)倉の中で淀君、大野治長、真田大助らとともに自刃した。
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(参考史料 日本城郭大系 日本城郭事典 その他雑誌)





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