龍野城

龍野城(別名 台山城・霞城・朝霞城) 築城年明応八年(1499年) 築城者赤松村秀 種別 平山城
    兵庫県龍野市龍野町上霞城

播磨国の中西部を流れる揖斐川(いぼがわ)西岸に位置し、姫路と上郡を結ぶ旧山陽道が龍野の南辺を通過する。
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川沿いに北上すれば、室町時代に赤松氏の守護所があった城山城(きのやま)東麓の越部を経て、宍東郡の山崎へと達する。
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この地には、標高210m余の鶏籠山(けいろうざん)が揖保川に張り出し、赤松氏の中世城郭が所在したとされる。
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そして、山伝いに北方へ城山城、西方に赤松氏の本拠地の白旗城と連絡するネットワーク上の要地でもあった。
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羽柴秀吉が播磨に入った天正五年(1578年)、龍野城の赤松広英が軍門に下って退去。
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同九年に蜂須賀正勝が入城したのち、木下勝俊や小出吉政ら豊臣系の武将が相次いで城主となり鶏籠山石垣で一部固めた新型の山城に補強した。今も山上には石垣とともに数段にわたる削平地や大きな竪堀が残されています。
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龍野藩の成立は、元和三年(1617年)に姫路城主である本多忠政の二男忠朝(ただとも)が、当地に五万石の封を得たことに始まる。その後、寛永三年(1626年)に明石城主の小笠原忠真の甥長次が六万石で龍野に入城し、本多・小笠原氏の時代に鶏籠山の南麓に城地が整備されたと考えています。
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近世城郭としての龍野城は城山の古城を温存しつつ、政庁にふさわしい形へとスタイルの刷新が施されたといえる。城内が狭いために台山の麓に別荘が営まれたが、建物の聚遠亭(しゅうえんてい)は遺存しており、その茶室は脇坂安宅(やすおり)が京都所司代として御所の造営に尽力した功により、二条城内の茶室を賜って移築したものと伝え、聚遠亭(しゅうえんてい)と共に市史跡に指定されています。
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築城にはいくつかの諸説がありますが、赤松正秀が政則から託された村秀のために明応八年(1499年)頃に築いた説が有力であります。
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以後、赤松氏が代々居城し、天正五年(1577年)中国攻めの秀吉に従った。同年、秀吉は石川光元に一万石を与えて龍野城主とし、光元は不便な鶏籠山(けいろうざん)にある城を麓に移した。
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この光元の城が現存する龍野城址の前身となる。同年、蜂須賀正勝五万石が入城、同九年、蜂須賀氏は阿波徳島に移った。
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この時、龍野特産の藍を徳島に移し、徳島の藍は蜂須賀氏の保護を受けて全国に販売されたため、龍野の藍はしだいに衰えた。徳島ではこれを播磨倒しと呼んでいる。
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その後、七氏八人の城主が交代、万治元年(1656年)時の城主京極高知が讃岐丸亀に移封され、城は取り壊された。寛文十二年(1672年)信濃飯田から脇坂安政が入封、廃城だった龍野城を大阪にあった御用米二千石を借りて再建した石高五万一千石で代々相続いて明治に至った。
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(参考史料 日本城郭大系 日本城郭事典 その他雑誌)





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