下赤坂城

下赤坂城(赤坂城) 築城年元弘元年(元徳三年・1330年) 築城者楠木正成 種別 山城
       大阪府南河内郡千早赤坂村

下赤坂城は、金剛山支脈の一端、甲取山に築かれたもので、千早赤坂中学校の裏手にあります。
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丘陵上に「赤阪城址」の碑が建っています。城は、東・北の二方は東条川が流れて自然の堀となり、はるか東南には上赤坂城・茶臼山砦などの山砦が重なって金剛山山頂に続き、西は佐備谷の向うに龍泉寺城・金胎寺城を望み、南は高塚山に続くが、当時、ここに堀切りを設け、高塚砦と併せて南面の防禦としていた。
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飲料水はこの高塚山より引いたという。
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頂上部は四方の展望がきき、河内平野から金剛山千早城に迫らんとした場合、まず、第一の関門の役をなしたのがこの下赤坂城でありました。
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現在では当時の面影をうかがうのは困難ですが、本丸・二の丸・三の丸と本丸の北方にやや低い出丸が構えられていた。
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地名に「一の木戸」「甲取坂」「屏風塚」「藤林」「出合」「隠れ」「玉院の御所」などが残っている。
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元徳三年(元弘元年)、後醍醐天皇が笠置山に遷幸の時、笠置がもし危なくなれば、ここに天皇を迎えようとして楠木正成が急いで築城したが、
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同年九月二十八日、笠置が陥り、後醍醐天皇は楠木の館におもむこうとしたが、途中で捕えられた。
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そこで楠木正成は護良親王(もりよししんおう)を奉じて当城に拠ったのである。笠置の城を陥れた鎌倉勢は、威勢に乗じて下赤阪に攻め寄せてきた。
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下赤阪城はにわかずくりのうえに衆寡敵せず、十月二十一日夜、正成は折からの暴風雨に乗じ城に火を放って、護良親王らと共に金剛山中に落ち隠れた。
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翌正慶元年(元弘二年)四月、楠木正成は再起し、鎌倉方の湯浅定仏を奇襲、再び下赤阪城を奪回した。約一年後、再び当城は鎌倉勢のため落城したが、建武の中興となり、鎌倉幕府は滅亡した。その後、湊川で楠木正成が戦死したのちは、正儀(まさのり)らがこの城に拠った。延文五年(正平十五年・1360年)四月二十九日、龍泉寺・平石両城が落ちた時、正儀も当城を捨てて金剛山中へ退いた。
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標高185.7m、比高61.4m。自然の険しい地形を利用した中世山城です。鎌倉時代後半から南北朝時代にかけて活躍した楠木正成(1294年~1336年)によって築城されたといわれています。元弘元年(1331年、鎌倉幕府倒幕計画が発覚し後醍醐天皇が吉野へ逃れました。これに合わせて、護良親王を迎えて挙兵しました。10月に幕府軍が攻め寄せてきた合戦の様子は「太平記」に記述されています。今日NHK、BS放送で再放送がされていて下赤阪城がでてきます。下赤阪城は城としての遺構は明確になっていませんが、千早赤阪村役場の上付近が主郭(本丸)であったと言われています。     (参考史料 日本城郭事典 日本城郭大系 現地案内版 その他雑誌)






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